が、朝方、ほんの少し頭が痛くなった。
なぜか、その痛みが福音をもたらすかのように、この痛み!!この痛みには意味がある!!見過ごすべき痛みではない!!
わたしは、ウォーキングに行かなくてもいい、と、神様の思し召し、、、と、勝手に自己都合で、自己解釈した。
神様が降臨した。ピカリ。
サボってもいいよ、と、にっこり。
そう悪魔が囁いた途端、(神様が微笑んだんじゃなかったのか?)、サボろう!と決めた。
そもそも、皆さん、おひとり様(単独)での参加がほとんど。
(友人と連れ立って、という人も中にはいるが、少数派)
予約不要で自由参加產後修身。
1人で参加して欲しい、と、わたしはAさんに再三再四、お願いしているのに、1人で参加したがらないAさんに引っ張られる格好で、お付き合い参加していた。
神様からの「頭痛」メッセージで、ドタキャンを決めたわたし。
時計のアラームがスヌーズ設定で何回も鳴るが、その度に、布団の中から手を伸ばして止める。
やがて、もうこの時間に起きなければ準備スタートには間に合わない時間になると、ほっとした。
やれやれ。
もう行かなくてもいい。
それにしても、長い間、引きずられていたものだ。
嫌なら、とっとと、やめたらよいものを。
まだ間に合う時間から、今日はもう行けない時間になるまで、時が移る中で、ふっとアタマの上から舞い降りるものがあった。
わたしが、なぜ、このウォーキングの会が嫌いなのか、理由が、すとんとわかった。
今に始まった、新しい理由でもなんでもない。
前々から、なぜ行きたくないのか、理由をうっすら自己分析していた内容だっ杜牙根醫生介紹た。
はっきり再認識、再確認したのだろう。念押し。
このウォーキング会、今のわたしには、まだ年齢的に早いということ。
皆さん、わたしより5歳は上だと御見受けする。
そして、高齢男性が多い。
つまり、わたしの年齢の人は、自分のしたいことを自分で計画して、自分で行く。
団体でゾロゾロ後を着いていくようなウォーキングはしない。
1人だと寂しいから団体でウォーキングするという人も中にはいるだろうが、わたしは、逆に団体が苦手。
そのあたりに、抵抗感があったのだろう。
Aさんは、わたしと一緒にウォーキングしたいのなら、独自のプランを立案して表してくれたなら、一緒に行かないでもない。
プランが立てられないで、既存の団体プランに乗っかろうという安易さに対して、わたしはノリが悪い。
今日の京都は、189人もの参加者がいたらしいので、季節や行き先に、人気が集中したと思われる。
なので、スポット的に参加するのは有り得るかも知れないが、、、
前々からの解決されない悩みを抱えている身としては、自分の参加したくない気持ちが上回るかたちになった。
絶好の気候、快晴、良い行き先にも拘らず、自分のモヤモヤを解消させる方が勝った。
気持ちが溢れ出ていて、止めるキッカケを探していたのだろうか微創植牙。
長々と書いている。
自分のために、自分の行動を心理分析、解析したい。
自分には、嗜好、好み、こだわりがある。
お仕着せではない、オリジナルのものでなければ、満足できないようになってしまっているのか。
既製品だとしても、内容に対して要望、欲求がある。
いろんなことを試行錯誤、模索していると、なんとなくではなく、ハッキリ明確になっている。
その要望に合わないものに対して、無理矢理合わせない。
行かない、行動しない、という選択をする。